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大阪在住 ふたご座 A型
社会保険労務士・行政書士
社会人2年生“ひろ”の母ちゃん
ズンバ&ヨガ&ボディコンディショニングで「美と健康」を追求
≪カバグッズ収集≫が趣味
(最近は、読書記録を兼ねたブログ)
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2011/02/04 :: 立春 梅見頃
新春用に作った寄せ植えの梅が
満開に近づいて、今、見頃・・・
!!$photo1!!
ピンクのバラもきれいに咲いて、
立春の今日は、少し春っぽい空気だった。
新春用に作った寄せ植えの梅が
満開に近づいて、今、見頃・・・
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ピンクのバラもきれいに咲いて、
立春の今日は、少し春っぽい空気だった。
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2024/03/04
『たましひに着る服なくて』 米川千嘉子
[本]
Made in Y (HPより)
・青色の病衣のなかに人は立ち病は賢者のごとく殖えたり
・父の家の障子張り替ふ裸なる棧はうつくし若き父見ゆ
・幼な日の石榴も葡萄も桃の木もなき庭に父の車椅子とどく
・父を支へて歩めば老人のにほひせり不機嫌に垂るる時間の匂ひ
・病む父と母が疲れて眠る家雨の中なににも喩へたくなし
そしてまた、この一冊には病む父が多く詠み込まれている。
いま、ここにいる年老いた父。
彼女が子どもだった頃の若々しい父。
彼女は、こうしたいわばふたりの父を見ている。
しかしまぎれもなく、目の前の父は病んでいる。
一首め。賢者はおそらく父のことだ。
病をこう比喩することによって、父を語る。
青色の病衣は、精悍な父を象徴している。
そうあって欲しいと願う娘の希求を素直に表出している。
二首め。裸なるのは父だ。その肉体は逞しく、美しい。
三首め。石榴、葡萄、桃。幼い頃の日々を彩った庭の木々。
どれも実を生らせるものだ。いまはこうした木々もない。
木々を通して、父を描きだす。
四首め。父に老人の匂いを感じる。
繊細とはいえ、いわば日常的な感覚だ。
しかし下句で、不機嫌に垂れる時間の匂いと言い換える。
この感性=理性が彼女のものだ。
五首め。彼女は、比喩がときに現実からの逃亡を
手伝うことを知っている。
ここにいる父と娘は、不思議な距離感を保っている。
いや、ふたり距離感というより、父の存在感のことだろうか。
父の輪郭は、病とともにくきやかに描かれている。
しかし、父はそこにはいない、そんな印象を受けるのだ。
子どもを素材にした作品と比べると明らかだ。
子どもは、まぎれもなくそこにいる。
おそらく彼女は、自覚していないだろう。
しかしそれが、かなしいほど確かな彼女の技術なのだと思う。
子どもへ向かう相と父へ向かう相。しかしふたつは、
生/死といった単純なありよう−対比されるものとして意
味づけられているのではない。
彼女はこれらふたつの相を並置しながら、
それぞれの本質を記述しようとしている。
むろん、多くの人びとにとって通約可能なそれではない。
そしてそれは、彼女自身−その未知なる領域を
捉えようとする試みでもある。
そこでは、かけがえのない生を形づくるはずのさまざまな萌芽が、
彼女のことばによって捕獲されるのを待っている。
そらいろの卵は、おそらくそこをめざして落ちていくのだ。
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・青色の病衣のなかに人は立ち病は賢者のごとく殖えたり
・父の家の障子張り替ふ裸なる棧はうつくし若き父見ゆ
・幼な日の石榴も葡萄も桃の木もなき庭に父の車椅子とどく
・父を支へて歩めば老人のにほひせり不機嫌に垂るる時間の匂ひ
・病む父と母が疲れて眠る家雨の中なににも喩へたくなし
そしてまた、この一冊には病む父が多く詠み込まれている。
いま、ここにいる年老いた父。
彼女が子どもだった頃の若々しい父。
彼女は、こうしたいわばふたりの父を見ている。
しかしまぎれもなく、目の前の父は病んでいる。
一首め。賢者はおそらく父のことだ。
病をこう比喩することによって、父を語る。
青色の病衣は、精悍な父を象徴している。
そうあって欲しいと願う娘の希求を素直に表出している。
二首め。裸なるのは父だ。その肉体は逞しく、美しい。
三首め。石榴、葡萄、桃。幼い頃の日々を彩った庭の木々。
どれも実を生らせるものだ。いまはこうした木々もない。
木々を通して、父を描きだす。
四首め。父に老人の匂いを感じる。
繊細とはいえ、いわば日常的な感覚だ。
しかし下句で、不機嫌に垂れる時間の匂いと言い換える。
この感性=理性が彼女のものだ。
五首め。彼女は、比喩がときに現実からの逃亡を
手伝うことを知っている。
ここにいる父と娘は、不思議な距離感を保っている。
いや、ふたり距離感というより、父の存在感のことだろうか。
父の輪郭は、病とともにくきやかに描かれている。
しかし、父はそこにはいない、そんな印象を受けるのだ。
子どもを素材にした作品と比べると明らかだ。
子どもは、まぎれもなくそこにいる。
おそらく彼女は、自覚していないだろう。
しかしそれが、かなしいほど確かな彼女の技術なのだと思う。
子どもへ向かう相と父へ向かう相。しかしふたつは、
生/死といった単純なありよう−対比されるものとして意
味づけられているのではない。
彼女はこれらふたつの相を並置しながら、
それぞれの本質を記述しようとしている。
むろん、多くの人びとにとって通約可能なそれではない。
そしてそれは、彼女自身−その未知なる領域を
捉えようとする試みでもある。
そこでは、かけがえのない生を形づくるはずのさまざまな萌芽が、
彼女のことばによって捕獲されるのを待っている。
そらいろの卵は、おそらくそこをめざして落ちていくのだ。
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posted at 2024/03/04 21:35:35
lastupdate at 2024/03/04 21:35:35
【修正】
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